文化遺産マネジメントラボ

Cultural Heritage Management Laboratory

日本遺産認定取り消しの見送りにあたって

 先日、津和野の日本遺産認定の取り消しは一旦見送りになったという発表が行われ、テレビや新聞で報道された。計画の見直しで認定取り消しの危機は当面去ったようであるが、今後の取り組みによっては本当に取り消しになることから、これからの2、3年が正念場であるという。かつて認定を受け、津和野町日本遺産センター(以下「日本遺遺産センター」という。)を設置して運営に携わっていたころには、観光客はもちろんのこと、視察や研修などで訪れる組織や団体、学校なども多く、成功事例として各方面で紹介されたりもした。データで見ても観光客の入り込み数は周辺地域で減っている中で現状を維持し、中には増えている施設もあった。しかし、退職して3年の間にまちづくりの計画や日本遺産センターの運営はどうなってしまったのか。

 退職後、日本遺産プロデューサーとしていくつかの認定地域を評価する機会があったが、それらに比べて津和野における当初の計画内容や取り組み内容がマイナス評価になることはありえない。コロナの影響は全国的なものなので評価が低かったという理由にはならない。当時の関係者も変わったり、すでに辞めているスタッフもいるようなので、日本遺産センターの設置の経緯、当初の運営方針と役割、機能などについてあらためて説明しておこうと思う。そして最後にこれからの日本遺産のあり方についても言及する。今後、日本遺産に関わるすべての方々の参考になることを願う。

日本遺産センター設置の経緯

 津和野町は平成27年度、第1回の日本遺産の認定においてストーリー「津和野今昔~百景図を歩く~」が認定を受けました。そもそもなぜ認定に向けて手を挙げたのかというと、単独での申請要件であった歴史文化基本構想を策定し、文化財の保存・活用の方針を決めていたし、歴史的風致維持向上計画の認定も受けて今後ハード整備が進められることなどが決まっているなど、文化財の魅力についての情報発信を進めていくための条件が整っていたからです。つまり当時としては自然な流れだったのですね。

 認定前であったと思いますが、文化庁から認定を受けた後の取り組みについての具体的な取り組み案について示すよう指示がありました。提案書には情報発信施設としての日本遺産センターを設置し、そこで「日本遺産」の制度と認定を受けたストーリーをPRしていくということを書き込んでいました。認定にあたっては紆余曲折がありましたが、なんとか第一回に滑り込むことができ、事前の取り組み案をもとに計画を実行していくこととなります。

場所の選定

 まず、情報発信施設としてなぜ現在の場所に設置したかということです。観光エリアである津和野地区には交通の拠点施設として町の北端にJR津和野駅が、南端に道の駅があります。観光客の多くは北部エリアにある殿町通りの散策、太鼓谷稲成神社の参拝を目的にやってくるのですが、殿町エリア付近に車を止めて散策をするため、殿町通りと駅との間にある商店街が次第に寂れていっている状況にありました。また平成25年に殿町エリア一体が重要伝統的建造物群保存地区に選定されたことから、その地区の活性化も課題となっていたのです。

 日本遺産の認定は7月でしたが、実は前年度の段階ですでに文化庁から日本遺産創設の話があり、センターの場所については内々に選定を進めていました。そこで殿町通りとJR津和野駅との中間地点(商店街の北端になる)にあるすでに閉館していた美術館に目をつけ、そこを情報発信の拠点として整備したいと考えたのです。

 町として方針が決まってすぐ、関係者を通じて所有者の方(故人)と連絡をとり、活用についての話をさせていただきました。津和野の歴史や文化について造形の深いその方はすぐに快諾してくれて、施設も無償で町に譲っていただくことになりました。この場所であれば、JRを利用してまちを散策してくれる人の目にもとまるし、殿町通りから商店街へ誘導することが可能になることから、センターの機能を考えれば最も適した場所であったと思います。

施設の運営方針

 津和野地区には狭いエリアの中に多数の文化財のほか、安野光雅美術館や森鷗外記念館、桑原史成写真美術館といった全国的に有名な施設がありますし、郷土館や民俗資料館(当時)、さらには民間の美術館など様々な施設があります。また、観光協会や道の駅などの情報発信施設もあり、他のまちに比べても文化を生かしたまちづくりを行うには充実した施設が整っているといえます。そうした中で日本遺産センターが果たすべき機能についてどうあるべきかについてはかなり慎重に検討をおこなっていきました。

 最終的にに、ストーリーを単にパネル展示や動画などで紹介するだけでなく、津和野百景図に描かれている題材をもとに、これからも日本人として守っていかなくてはならない文化財や暮らし、生活文化(文化遺産)について、現在のすべて人にわかりやくす紹介するとともに、町歩きの仕方を提案し、さらに文化遺産を守り伝えていくための仕組みづくりを行うこと、これをセンターの活動の方針としました。

 「単にパネル展示や動画で紹介するだけでなく」とは、ストーリーは他の施設と同じように受付を配置して入館料を徴収するだけでは決して来館者には十分に伝わらないということです。「津和野百景図」には、津和野藩の主要な施設や行事だけでなく、藩内の自然や風景、人々の暮らしが詳細に描かれています。その多くが今の文化財保護法の6類型とオーバーラップしており、作者である栗本格齋はまるで、文化財保護法の将来像を知っていたかのようです。これらを守っていくためには、「すべての人」、すなわち歴史愛好家や研究者だけでなく、男女問わず、しかも子供から親、そしてお年寄りの人までもが、作者の意図を十分に理解し、そしてそれらを現在の生活の一部として継承していくことが大切であると考えます。「津和野百景図」は単に歴史資料のひとつとして展示ケースの中に入れておくにはもったいない題材なのです。

 一般的に文化遺産の良さを伝えるということは容易ではありません。まずは実際に現地に行ってみて、そして体験してみることが大切ですが、単に展示を見ただけ、解説を読んだだけでは人は行動に移すことはまずありえません。そこで、歴史資料である「津和野百景図」を適切に読み込み、そしてわかりやすく解説する解説者、つまりコンシェルジュがとても必要なのです。「津和野百景図」を単なる歴史資料として紹介するだけではその価値を十分に伝えるということにはならないのです。

 文化遺産を継承していくためには、それを守り伝えていくための仕組みづくりが必要です。個人が一時的に何かやったからといってそれが文化にはなりえないし、現代社会において受け入れられないものを無理やり継承させるということも現実的ではありません。現代生活とあまりにかけ離れた体験は継続性が期待できませんし、イベントとしてやってもあまり意味はないと考えています。例えばイベントとして歴史的町並みを見て歩く見学会などが行われていますが、それはそれとして意味がありますが、それ以上に保存会をつくって防災意識を高めるための取り組みであるとか、町並みを守るための職人の仕事ぶりなどを実際に見学するなど、今の暮らしに密接した取り組みを行うことの方がより大切であるということはいうまでもありません。

 日本遺産センターは、単なる展示施設、既存のイベント情報だけを発信するだけの施設であってはその存在意味はありません。「津和野百景図」に描かれた絵や解説を通じて作者が将来に伝えて欲しかったことを読み解き、それを次世代に適切に伝えていくために必要な取り組みを実践していくのが日本遺産センターの役割であったように思います。

施設の役割と機能

 以上の運営方針をもとに、センターの運営は町で行うこととし、各種事業は観光協会や商工会の連携のもと協議会を設置して事業を進めていくことにしました。展示プランについては仕様書をつくり企画コンペをおこないました。最終的に山口市の(株)コアが受注し、こちらの要望等をふまえて展示施設を2か月半で整備することができました。その一方でスタッフの採用、様々な事務手続きを経て運営体制を構築し、10月には施設をオープンすることができたのです。(株)コアの担当者のみなさんは施設の運営方針を十分に理解し、開館後も運営についてのアドバイスや協力を行っていただきました。運営方針がしっかりしていれば、都会の大手企業に頼まなくても十分に機能する施設をつくることは可能です。

 施設の第一の役割は、施設に入ってもらって「日本遺産」制度とは何かを知ってもらうことです。一般の観光客の方々にとってそもそも「日本遺産」という言葉に全く馴染みがないからです。たいていの施設は有料で、展示がメインであり、解説も不十分で一般の観光客はなかなか入ってさえもらえません。そこで施設は無料とし、気軽に入ってもらえるようにサインなども工夫しました。来館者には「ここは新しくできた「日本遺産」を紹介するところで、津和野ではストーリー「津和野今昔~百景図を歩く~」が認定され、地域の歴史や文化の魅力を紹介する施設である」ことを説明します。これも長々とやっていると嫌われるので、15秒くらいで説明します。ここで興味を持ってもらえなければすべて終わりなのです。

 展示はまず最初に「津和野百景図」の百枚を一度に見れる大型パネルによって来館者にインパクトを与える仕掛けとなっています。そこでストーリーを簡単に紹介する3分の映像を見てもらい、あらためてパネルの細部を見ることでそれぞれの絵について関心を持ってもらうというわけです。大型パネルはコンシェルジュが主な絵について見学者に解説することとしています。展示はコンシェルジュが解説を行うことを前提に構成し製作していますので、コンシェルジュの解説の仕方で興味を持ってもらえるかもらえないかが変わるのです。一枚の絵でも気に入ってもらえればほかの絵について知りたくなるというのが人間の心理でしょう。

 絵は江戸時代における藩主や藩内に暮らす人々の豊かな暮らしぶりを描いていますが、それは森鷗外や西周が暮らしていたころの町の風景そのものですし、それらは「四季」「自然」「歴史・文化」「食」というテーマにも分けることができます。百枚の絵を様々な切り口で俯瞰することで、今に伝わる歴や文化を体感できるのがこのストーリーの面白さでもあります。

 デービット・アトキンソン氏は著書『新・観光立国論』において、観光にとって必要な要素は実に「気候」「自然」「歴史・文化」「食」であるといっています。展示は続いてそのテーマごとに「津和野百景図」から関連する絵とともに今の津和野を紹介しています。最後に、「津和野百景図」の作者である栗本格齋が同じ時期に描いた「津和野城下絵図」が待っています。これまでの解説を頭に入れてこの絵図を見ると、誰しもがその場所に行って見たいと思うような感覚になるといいます。季節が違えば、またその季節にここに行ってみたい、あの食べ物を食べてみたいということになります。津和野に何度も来たことがある人が「こんな魅力があったまちだったのか」といいます。また津和野を一通り回って最後にこの施設にやってきた観光客が「最初にここに来ていればもっと楽しめたのに」といいます。東京から毎月のように百景図のポイントを求めてやってくる人もいました。「なぜこの施設は入館料をとらないのか」という人もいます。お金は地域で落としてもらい、お店の人が日本遺産センターを紹介し、そしてまた地域にお金を落とすという好循環を生み出すことが大切であると考えています。

 日本遺産センターでは、当初様々な媒体で情報発信を行うとともに、来館者やイベントの参加者に対してアンケート調査を実施しました。観光客の情報入手手段はテレビや雑誌などの紙媒体がメインであり、まだまだSNSなどは十分に活用されていないという意外な結果でした。またエージェントと通じての旅行商品の造成なども行ってみたものの、「日本遺産」ということで参加しようというような社会的な気運はまだ高まってはいなかったのでしょうか、応募者はおらず企画倒れとなってしまいました。そうしたことを踏まえ、日本遺産センターでは車で2時間県内のエリアにテレビ、雑誌、新聞、チラシなどを中心に発信を行い、一定の成果を出すことができました。観光PRをするといって関東や関西エリアに情報発信するのもいいのですが、近くから年4回、それぞれの季節ごとに来てもらう人を増やすことの方が大切であると痛感しました。宿泊はその結果として増えてくるだと。そのためには常に新しい発見(調査・研究)、新しい体験(価値の提供)を準備しておかなくてはなりません。新たな文化財指定や新たな体験メニュー・土産物等の開発は、そのために行う必要があるのです。

体制整備

 以上述べた施設の役割・機能を考えると、施設に必要な人材はどういう人材であるかはもういうまでもありません。我々は7月に認定を受けてすぐにセンターの設置準備のための体制を整えました。主担当は日本遺産の認定に関わり、かつ文化財と観光を兼務した者(私)が担当しました。スタッフとして、かつて観光協会で広告などに関わってきた方(A)と、元学校の先生で、観光ガイドを行っている方(B)を採用しました。施設の開設後は、私は全般の管理・運営に携わり、Aは現場におけるマネージャー(企画運営、情報発信)として、Bはコンシェルジュとして関わってもらうことになりました。それ以外に、企画開発・情報発信スタッフを1名、外国人コンシェルジュを1名、文化財に詳しいコンシェルジュ(外国語対応可)を1名、受付・事務担当を2名、計7名体制で施設を運営することになりました。

 センターには観光客以外にも公民館の研修として、学校の総合学習の一環として、民間研修として、ツアーガイドの研修として、大学のゼミの一環として、地方議員の視察としてなど様々な人が訪れていました。また、テレビや新聞、雑誌の取材、他の地域からの講演依頼も多数ありました。時には国会議員や県知事らへの対応にも対応することもありました。地元の高校からは、学生のインターンシップの受け依頼があり、二週間程度の受け入れも行った。日本遺産認定地域としてあらゆる要望に対応する責任があると考え、必要な体制を整えスタッフを育成してきたのです。

連携の重要性

 日本遺産センターの運営のほかに、日本遺産魅力発信推進事業を実施しましたが、これについては、観光課が中心となって企画を立案し、協議会の構成団体の事務局レベルで調整を行い計画を策定しました。事務や協議会の運営については教育委員会が担当しました。事業そのものを民間に丸投げする認定地区もあるようであるが、行政にしかできないこと、民間でなければできないことがあり、それぞれの役割に応じて担当を割り振る必要があると思います。

 「日本遺産」は文化財を適切に保存・活用し、それを観光事業化につなげていくための制度です。つまり、その元となる文化財についてその”本質を語れる”人が中心にならなければ成功しないと考えています。観光課や企画部門が事務局を持っているところもありますが、その場合は教育委員会の、とりわけ文化財全般について知識のある担当者の協力がないと早晩事業に行き詰ってしまいます。観光の商品化はその「本質」の部分で行う必要があり、そのアイテムを持ち合わせなければ、よくあるゆるキャラや既存商品だけで戦うしかなくなってしまうのです。

「日本遺産」のこれから

 私は観光や仕事で各地を訪れた際、できるだけ日本遺産の認定ストーリーを回るようにしていますが、現地でストーリーを紹介するセンター機能を有しているところはほぼ皆無ですし、パンフレットさえ見たことがありません。また、現地の文化財が「日本遺産」の構成文化財であることや、「日本遺産」について語っているガイドに出会ったことがありません。富士山や仁徳天皇陵などで「世界遺産」はようやく認知されてきたような感じですが、日本遺産は認定地域においてさえ十分に認知されていないといってもよい状況にあります。

 最初の3年間の補助金がなくなったらあとは自力で継続していかなくてはならないことが前提条件でしたので、我々は当時行政が主体的に日本遺産センターを立ち上げ、そして民間と連携するシステムを作ったのです。協議会などの組織だけが残って事業を継承しているところもあるようですが、昨今の財政難のおり、単独で事業を継承できるだけの予算を確保できているところは少なく、シリアル型のところではわずかな予算を持ち寄ってパンフレットを作成したり、イベントを実施したりするだけというところも少なくありません。こうした状況では日本遺産としての認知度がこれからもあがっていくとは思えません。

 日本遺産の最終的な目的は、構成文化財を継承していくための仕組みをつくることにあります。今後、文化財を修理していくための予算(補助金)はどんどん減ってくるし、人口が減り、集落が崩壊すれば地域に密着した文化財はおのずと失われていきます。観光客を増やすことによって収益を増やし、自力で文化財を維持していかなければならない時代にすでになっているという認識を文化財担当者はもたなくてはならないし、文化財が失われれば、今ある観光も今後成り立っていかなくなるということを観光関連の方々も認識をしなければならないのです。

 そうした中にあって参考になるのが、バスケットボールのBリーグです。各地にチームがあり、スポンサーからの支援とチケット収入、そしてリーグからの支援金で運営が賄われています。まったく同じようにはいかないとは思いますが、全国的な日本遺産リーグ(仮称)のような組織をつくることが考えられます。リーグでは大手企業からの支援金をもとに、全国的なPRと認定地域への支援金の配分を行い、認定地域においては、地域企業からの支援金と旅行商品販売により、文化財の活用を支援するための仕組みづくりを行うのです。人気ランキングだけでなく、旅行商品の販売額によってランキングを行い、その結果によって資金の配分額を決めるなどストーリー間において競争原理を働かせなければ継続的な効果は期待できません。現状でいえば観光DMOや観光協会などがそうした役割を担うことになるのかもしれませんが、日本ではまだ行政からの支援に頼っているのが現状であり、日本遺産を取り組み材料とするにはまだまだ課題が多くありそうです。

 日本遺産のストーリーを魅力的に語り、そして適切に発信し、それを安定的な集客につなげ、個々の構成文化財の保存につなげていくための取り組みには、文化財における各分野をはじめとして、経済や統計、観光、経営などの分野における幅広い知識が必要です。現状では、関係者があつまって実践型のプロジェクトチームをつくり、お互いに知恵を出しあって自ら計画をつくり、各分野の専門家などからアドバイスを受けながら、日々実践と失敗を繰り返しながら進めていくしかないと思われます。

 平成30年度の文化財保護法の改正により文化財保存活用地域計画の策定により保存と活用の両立を図ることが求められるようになりました。いずれ学問レベルにおいてそれに対応できる人材の育成システムができてくるとは思われますが、まだまだそれは先のことになりそうです。現行制度の充実と見直し、認定地域における連携した取り組みへの支援、専門機関における人材育成。それらができなければ「日本遺産」という言葉そのものが、認定を受けたメリットを享受する前になくなってしまうかもしれません。

Follow me!

PAGE TOP